MENU

転職でお悩みの看護師さん達へ。キャリアアップを目指した私の経験談。その1

私は現在、アメリカのハワイ州で、看護師(Registered Nurse、RN)としてフルタイムで働いています。

 

私は日本でも、アメリカに留学する前は看護師として7年余、2つの病院で働いていました。

最初に就職した病院は、北海道の田舎の町、私が中学校まで過ごした町にあった公立の病院でした。その当時、人口が約5、000人ほどの小さな町にあり、その病院では3年9ヶ月、勤務しました。

その後、看護師としてのキャリアアップを目指して独自に就活し、念願叶って、東京にある某大学病院の救命救急センターへの転職に成功。アメリカに留学するまでの3年半、そこで勤務しました。

 

キャリアアップを目指して就活し、自分が働きたかった救命救急センターで働くという夢が叶い、そこで働いていた時に得ることのできた知識、技術、また一看護師として・人間として成長できたことは、その後の私の人生に多大な影響を与えてくれました。

当時の就活はとても大変でしたが、転職できたことにとても満足していますし、その経験が合ったので、アメリカでRNとして就職活動をする際にも役立ちました。

現在、転職を考えている看護師さん達、一人一人の状況や、転職の理由は様々だと思います。

私のようにキャリアアップを目指したり、違う分野の看護を極めたい!とか、お給料や待遇にがよくなかったり、人間関係に悩んでいたり、結婚・妊娠・出産・育児・介護等家族の状況の変化もあるかもしれません。

私が転職した時のこと、また今、振り返ってみて思うことについて書いておくことで、現在、転職について考えている、または悩んでいるっという看護師さん達に読んでもらえればっと思います。

 

 

 

本意ではなかった!?地元の病院への就職。しかし、、、

看護学校在学中から、救命センターで働くっというのが私の目標でした。

その当時は、”救命救急、密着24時!”っというような看護婦(当時、現在は看護師ですが)や救命医に密着したテレビのドキュメンタリー番組がたくさんあり、その影響もあったと思います。

”救命でバリバリ働いでいる自分”を想像するのが好きでした。(苦笑)

その当時の私は、救命は”看護師の花形”と思っていましたので、(今となると、いろんな形の看護師の花形があるとうことがわかるのですが。)”私は、救命で働くんだ!”っとずっと心に決めていました。

 

しかし、私の意に反して、最初の就職先は、地元にある公立の病院でした。

俗に言う ”お礼奉公” のためです。

私の家は、両親が離婚していて母子家庭だったので、遠隔地にあった衛生看護科のある高校、またその上の看護学校への進学のために、地元の町から奨学金をもらっていたのです。

 

過疎化の進んでいた、地元としては若い看護師の確保のために奨学金を貸し出し、その代償として、”お礼奉公”ということで、地元にある病院で決められた期間、看護師として働いてもらうという条件を提示していました。

私のお礼奉公の期間は3年間でした。

 

理想と現実の差〜しかし学ぶことも多かったお礼奉公時代

その病院では、私は、高校・看護学校在学中から、看護助手・准看護師として夏・冬・春休みには、アルバイトとして働かせてもらっていたので、実際に看護師として就職する前から、その病院での看護業務について教えてもらえたし、年が一番下っということで、婦長(師長)さんはじめ、先輩の看護婦さんやサタッフの方々には、とてもよくしてもらいました。

 

新卒で3年間も田舎の病院で働くなんて、、、っと、ちょっとふてくされている自分が全くなかったわけではありません。

その当時の私は、お礼奉公について、”救命で働く前の3年間のブランク”っと、ちょっとネガティブに考えていました。

しかし、実際に看護師として働き始めると、学生の時やアルバイトの時と違って、自分がするすべてのことに”責任”が付いて回る、という重圧にどう対応していくかっという大きな課題にぶち当たりました。

 

また、私が看護師として正採用になった当時、その病院には看護師は5人ほどしかいなく、圧倒的に年配の准看護師さんの数が多かった病院でした。

資格的には上の私でしたが、彼女たちの患者さんへの対応の仕方とか、技術とか、本当に羨ましく、喉から出るほどそれらの技術が欲しかった私でした。

看護師として歩き出した私でしたが、知識・技術の面ではまだまだペーペー。それが悔しくて、足りない知識を補うべく、たくさん勉強しましたし、技術の向上のために、点滴や処置、採血など、なるべくたくさんの数をこなすよう努力しました。

 

勤務体制

この病院は2交代制の勤務で、夜勤は2人の看護師で行っていました。病院と契約している助手さんが、数名、夜間一緒に泊まりをしていました。

夜勤の際は、何もなければお布団の上で仮眠が取れました。もちろん、急変や重篤な患者さんがいる場合、救急搬送がある場合は、徹夜になるわけですが、、、、。

当初の”救命でバリバリ働く自分”のイメージからは、かなりかけ離れていましたが、ここでの経験はとても貴重でしたし、たくさん学ばせてもらいました。

 

しかし、救命で働きたい!という思いが断ち切れず、お礼奉公が終わった3年後あたりから救命救急センターへの転職を本格的に考えるようになりました。

 

私が転職したかった理由:キャリアアップ

私の転職の一番の理由は、”救命で働いてキャリアを積みたい”でした。

結構野心家だった私。

私の家族は、当時の私を振り返り、結婚などせずにバリバリと仕事をこなしていき、”仕事に生きる感じだった”っと言っていました。(苦笑)

 

救命センターで働くということは、当時の私の中では、”花形”でした。

”一刻を争う緊迫した状況下で、患者さんの命を救うために医師の介助をし、たくさんある医療機器を使いこなし、患者さんとそのご家族に看護を提供していく”

 

私、かっこいいナースに憧れていたんです!

 

また、”救命救急センターで働いた経験がある”っというのは、もしその職場から違う場所に転職したとしても、大きな財産であり、その後の転職に有利に働くということもありました。

 

就活は少しずつ初めて行きましたが、”本当にできるのか?”っとか東京はちょっと危ないかも!?っという思いもあったり、迷っていた時期でもありました。

しかし、私の決意を確固たるものにする出来事が起こります。

 

その当時、私が働いていた病院の管轄内で、交通事故が発生。

19歳の若者が命を落としました。

亡くなられた後の患者さんの顔をみていて、思ったんですよね。

こんなに若くして亡くなるなんて。もっとできることがあったんじゃないか?っと。

 

それでも、その時はその時にできる精一杯の治療が行われたわけで。もうどうしょうもなかったですね。

しかし、私の中では、”もし救命センターだったら助かってた命だったんじゃないか?”っという思いが捨てきれませんでした。

救命に行こう!と決心した出来事の一つでした。

 

田舎ではいつでも働けるけど、救命は独身で体力のあるうちに行ったほうがいい。

”今行かなくちゃ、ずっと行けなくなる。”

そして、転活(転職のための活動)を本格的に始めたのでした。

 

困難を極めた転職活動

率直な感想。大変でした。

 

当時は現在のようにインターネットやスマホが発達していなく、かつ現在のように看護師転職 のサポートをしてくれるエージェントというのもなかったので、全て自分で行動しなくてはなりませんでした。

 

最初は、北海道内で救命救急センターのある病院を調べる所から始まりました。

各病院名と電話番号を確認したあと、電話をかけ、採用条件の確認、お給料や手当、有給・病欠の有無、勤務形態、寮の有無、交通費の支給はあるか、採用試験と面接方法や履歴書の提出方法などを、一つ一つ当たっていきます。

履歴書も、現在はパソコンのワードなど、テンプレートなどを使用して、簡単に作成できますが、当時は、文房具屋さんで買って来た紙の履歴書を一枚ずつ手書きでした。

途中で間違えたものなら、ホワイトアウトが使えないので、書き直し!!

 

これらを普通の勤務をこなす合間にするので、とても効率が悪かったし無駄な時間だけがどんどん過ぎていき、”本当に救命救急センターで働けるの?” っと焦りを感じていた私でした。

 

転機

転職活動に憤りを感じていた私に転機が訪れました!

それは、地元の消防士さんに誘われて行った、北海道で行われた熱傷学会でした。

そこに講師として来ていた先生(医師)の対応に感激と衝撃を受けた私。

 

”こんな先生いるんだ!” っと。

 

学会に出席している消防士さんや他の医療従事者からの質問に対して、丁寧に穏やかな声で真摯に答えていくその医師の姿勢は、当時の私にとって、とても衝撃的でした。

 

”この先生の下で働きたい!”

 

そして、そこからの私の行動は早かった。(笑)

早速、履歴書を同大学の医事科に送り、面接のスケジュールを決まるため、再三電話攻撃。その甲斐あってか、面接にこぎつけることができ、上京。

面接後、1週間ほどして病院から、採用の連絡があり、晴れてその病院の採用となる。 が、しかし、その時点では、配属先は決定しておらず、救命センターで働けるかどうかは不明のまま、地元の病院に退職届を出す。その年の12月末付で退職。

 

新年明けまして、晴れて新しい職場での仕事をスタートさせました。